まな板の鯉として自ら俎上に載る話
「はじめに言葉ありき」
遥か大昔から、私たちは言葉を耳にし、目にし、口にしてきました。
現代社会において、マスメディア、インターネットを通じて、
ありとあらゆる言葉が、私たちの身体を駆け抜けていきます。
万感の思いがこもった一言。ふと口から出た本音。
心にもないウソ。雑言。挨拶。可視なもの。不可視なもの。
日常生活を通じて、私たちは様々な言葉と出合います。
古今東西、人がもっとも関心のあることは、
人間ついて。
人はいつも人間性について、人間社会について、
己について、言葉通じて探求しています。
私は、薄っぺらな自惚れにしがみつき、
ブログを運営してきています。
楽しみであるはずのブログ、記事を作成しながら、
自己嫌悪に陥ることが多々ありました。
ブログとは、人の観察記録。日記。
ブログは数多に存在します。
ブログを楽しまれる方は、多くのブログを巡回します。
他人の書いた日記を覗き見する。
なんと浅ましく、楽しい行為なのでしょう。
日記には、どんなに極秘に書かれようとも、
心の奥底では、誰かに読んでもらいたいという想いが存在します。
ましてやブログ。全世界に門戸が開かれています。
その想いは、尚更強いものがあるでしょう。
ブログは、どんなに赤裸々に語られようとも、
そこに保身が存在します。
安全な立ち位置が確保されています。
ブログには、誰かに自分のことを分かってもらいたい。
自分のことを良く思ってほしい。
強い自己愛が存在します。
ブログに純粋な客観性は存在しません。
ブログは、自分勝手であり、独りよがりの産物。
いうなれば偽善に塗れた自己顕示欲の塊。
私のブログは、いつも混乱し、酩酊しています。
訪問者は、1~2日分の記事を拾い読み、つまみ食いします。
混迷の中から、筆が滑った言葉を探します。
言葉にならなかった情念を推察します。
執筆者を丸裸にしようと試みます。
人は誰もが探偵、心理学者。
探偵が、犯人の残した痕跡を辿るかのように、
ブログエントリー、コメントを通じて、
執筆者の人間性を観察します。
訪問者は、筆者の意図しない別の感慨を得ます。
「人のふり見て我がふり直せ」
良くも悪くも、人間性を教訓として持ち帰ります。
私にできることは、まな板の鯉として
自ら俎上に載ること。
そして個々の訪問者の瞳に映る
「私」を持ち帰って頂くこと。
中編へ続く^^
まず初めに共感ありき
私のブログは、私の意図したようには読まれません。
ブログコメント欄は、大人の社交場です。
共感できない箇所については、コメントを省略するか、
最小限度に留めるように工夫を図るでしょう。
それぞれ相手を楽しくさせたいという思いを持って、
節度あるコメント対話を楽しむでしょう。
私は、FC2バトンをいくつか作成しています。
バトンは、バトン作者のブログを訪問せずとも、
回答することが可能です。
私は、私が作成したバトン記事を辿って、
バトン回答者のブログを初訪問します。
そこで、辛らつな言葉とぶつかることがあります。
ぐさりぐさりとやられることがあります。
記事の存在自体を、真っ向から否定されることがあります。
一刀両断に、ズバンと切られることがあります。
普段、コメント交流してくださる方の優しさが身に沁みます(笑)
私は、ニュースサイトの記事、論評を読むことがあります。
コメント欄がいつも荒れています。
肯定、共感コメントは殆どありません。
記事の内容や、執筆者の想いを
あっさりと否定することによって、
自己を確立させる形のコメントが目立ちます。
匿名性が強いネット社会には、
言葉への責任が放棄されやすい性質があります。
みなが好き勝手に自我を張れば、
露出して擦れ合い、殺伐とした空気が生まれます。
自由とは、傍若無人に振舞うことではなく、
責任を伴うものだということを、
自覚する必要があると感じます。
人には自尊心があります。
嫉妬心が渦巻くこともあるでしょう。
時には他者を否定することによって、
自己を守ることもあるでしょう。
人は、他人を褒めることが
本質的には嫌いなのでしょうか…
人間に関心を持つ。それは、その人のことを好きになる、
その人の見えない良さを見つける、
その人の良さを評価することだと思っています。
それが、人を見る目を養うことに繋がると信じています。
人間の負の部分を凝視する。他者との相違を見極める。
他者に流されない、影響されない自我を確立することも大切なことです。
同様に、他者と同化させる、想いを感応させる訓練も、
社会生活を営む上で、大切なことだと私は考えています。
それこそが、学ぶ姿勢を育むのではないかと考えています。
他者に共感する行為は、
どこまで行っても果てがないということ。
他者に共感する行為は、他者を否定する行為以上に、
好奇心が求められるということ。
好奇心は情念。
情念は、苦悩の源泉、よろこびの源泉。
感受性を輝かせ、情念を燃やすことが、
人間的厚みを増させるように感じます。
その人のことを好きになる。その人の良いところを見出す。
それらを念頭に人と会う。ブログを訪問する。
学ぶということ、褒めることを前提に他者と交流をはかる。
自らの人生を、実りあるものにするための、
極意なのかなという気がします。
人は、一人では生きていくことはできません。
まず初めに共感ありき。
後編へ続く。
ブログを運営される方は、
基本的に活字が好き。読むことが好き。
文章を綴ることが好きだと考えられます。
人間の思想や情念の中には、
多くの人生経験を積んでからでないと
心に届かないものがあります。
理解できないものがあります。
ある時、見えなかったものが見えるようになる。
格別の嬉しさがあります。
お気に入りの本を何度も再読する。
そのたびに新しい鉱脈を発見できる。
楽しいひと時でしょう。
本は、読む時の心境や年齢に応じて、
異なる養分を与えてくれます。
この世の中には、偉大な思想、名著が存在します。
無意味な思想、役に立たない書物は存在しないと考えています。
古典といわれる本であれ、くず本とよばれる本であれ、
そこから何を得、何を学び、何を骨肉とするかは、
読み手側の資質、人間性に拠るのではないかと思っています。
ブログも人間が作成したもの。
ブログ訪問した際は、その存在性を尊び、
細部に魂が感じられるよう、ただ敬虔な心持ちを意識、
ブログを楽しく玩味したいと考えています。
ブログ運営する時は、それらも踏まえ、
臆することなく、あるがまま。
まな板の鯉として俎上に載りたいと思っています。
私の大切なお友達、
きょうもいいてんきっ♪♪♪
運営者のゆう。さんも私と同テーマについて、
簡潔に力強い言葉で語っています。
↓↓よろしければご参照お願いします。
っ わたしが此処で綴るワケ。
遥か大昔から、私たちは言葉を耳にし、目にし、口にしてきました。
現代社会において、マスメディア、インターネットを通じて、
ありとあらゆる言葉が、私たちの身体を駆け抜けていきます。
万感の思いがこもった一言。ふと口から出た本音。
心にもないウソ。雑言。挨拶。可視なもの。不可視なもの。
日常生活を通じて、私たちは様々な言葉と出合います。
古今東西、人がもっとも関心のあることは、
人間ついて。
人はいつも人間性について、人間社会について、
己について、言葉通じて探求しています。
私は、薄っぺらな自惚れにしがみつき、
ブログを運営してきています。
楽しみであるはずのブログ、記事を作成しながら、
自己嫌悪に陥ることが多々ありました。
ブログとは、人の観察記録。日記。
ブログは数多に存在します。
ブログを楽しまれる方は、多くのブログを巡回します。
他人の書いた日記を覗き見する。
なんと浅ましく、楽しい行為なのでしょう。
日記には、どんなに極秘に書かれようとも、
心の奥底では、誰かに読んでもらいたいという想いが存在します。
ましてやブログ。全世界に門戸が開かれています。
その想いは、尚更強いものがあるでしょう。
ブログは、どんなに赤裸々に語られようとも、
そこに保身が存在します。
安全な立ち位置が確保されています。
ブログには、誰かに自分のことを分かってもらいたい。
自分のことを良く思ってほしい。
強い自己愛が存在します。
ブログに純粋な客観性は存在しません。
ブログは、自分勝手であり、独りよがりの産物。
いうなれば偽善に塗れた自己顕示欲の塊。
私のブログは、いつも混乱し、酩酊しています。
訪問者は、1~2日分の記事を拾い読み、つまみ食いします。
混迷の中から、筆が滑った言葉を探します。
言葉にならなかった情念を推察します。
執筆者を丸裸にしようと試みます。
人は誰もが探偵、心理学者。
探偵が、犯人の残した痕跡を辿るかのように、
ブログエントリー、コメントを通じて、
執筆者の人間性を観察します。
訪問者は、筆者の意図しない別の感慨を得ます。
「人のふり見て我がふり直せ」
良くも悪くも、人間性を教訓として持ち帰ります。
私にできることは、まな板の鯉として
自ら俎上に載ること。
そして個々の訪問者の瞳に映る
「私」を持ち帰って頂くこと。
中編へ続く^^
まず初めに共感ありき
私のブログは、私の意図したようには読まれません。
ブログコメント欄は、大人の社交場です。
共感できない箇所については、コメントを省略するか、
最小限度に留めるように工夫を図るでしょう。
それぞれ相手を楽しくさせたいという思いを持って、
節度あるコメント対話を楽しむでしょう。
私は、FC2バトンをいくつか作成しています。
バトンは、バトン作者のブログを訪問せずとも、
回答することが可能です。
私は、私が作成したバトン記事を辿って、
バトン回答者のブログを初訪問します。
そこで、辛らつな言葉とぶつかることがあります。
ぐさりぐさりとやられることがあります。
記事の存在自体を、真っ向から否定されることがあります。
一刀両断に、ズバンと切られることがあります。
普段、コメント交流してくださる方の優しさが身に沁みます(笑)
私は、ニュースサイトの記事、論評を読むことがあります。
コメント欄がいつも荒れています。
肯定、共感コメントは殆どありません。
記事の内容や、執筆者の想いを
あっさりと否定することによって、
自己を確立させる形のコメントが目立ちます。
匿名性が強いネット社会には、
言葉への責任が放棄されやすい性質があります。
みなが好き勝手に自我を張れば、
露出して擦れ合い、殺伐とした空気が生まれます。
自由とは、傍若無人に振舞うことではなく、
責任を伴うものだということを、
自覚する必要があると感じます。
人には自尊心があります。
嫉妬心が渦巻くこともあるでしょう。
時には他者を否定することによって、
自己を守ることもあるでしょう。
人は、他人を褒めることが
本質的には嫌いなのでしょうか…
人間に関心を持つ。それは、その人のことを好きになる、
その人の見えない良さを見つける、
その人の良さを評価することだと思っています。
それが、人を見る目を養うことに繋がると信じています。
人間の負の部分を凝視する。他者との相違を見極める。
他者に流されない、影響されない自我を確立することも大切なことです。
同様に、他者と同化させる、想いを感応させる訓練も、
社会生活を営む上で、大切なことだと私は考えています。
それこそが、学ぶ姿勢を育むのではないかと考えています。
他者に共感する行為は、
どこまで行っても果てがないということ。
他者に共感する行為は、他者を否定する行為以上に、
好奇心が求められるということ。
好奇心は情念。
情念は、苦悩の源泉、よろこびの源泉。
感受性を輝かせ、情念を燃やすことが、
人間的厚みを増させるように感じます。
その人のことを好きになる。その人の良いところを見出す。
それらを念頭に人と会う。ブログを訪問する。
学ぶということ、褒めることを前提に他者と交流をはかる。
自らの人生を、実りあるものにするための、
極意なのかなという気がします。
人は、一人では生きていくことはできません。
まず初めに共感ありき。
後編へ続く。
ブログを運営される方は、
基本的に活字が好き。読むことが好き。
文章を綴ることが好きだと考えられます。
人間の思想や情念の中には、
多くの人生経験を積んでからでないと
心に届かないものがあります。
理解できないものがあります。
ある時、見えなかったものが見えるようになる。
格別の嬉しさがあります。
お気に入りの本を何度も再読する。
そのたびに新しい鉱脈を発見できる。
楽しいひと時でしょう。
本は、読む時の心境や年齢に応じて、
異なる養分を与えてくれます。
この世の中には、偉大な思想、名著が存在します。
無意味な思想、役に立たない書物は存在しないと考えています。
古典といわれる本であれ、くず本とよばれる本であれ、
そこから何を得、何を学び、何を骨肉とするかは、
読み手側の資質、人間性に拠るのではないかと思っています。
ブログも人間が作成したもの。
ブログ訪問した際は、その存在性を尊び、
細部に魂が感じられるよう、ただ敬虔な心持ちを意識、
ブログを楽しく玩味したいと考えています。
ブログ運営する時は、それらも踏まえ、
臆することなく、あるがまま。
まな板の鯉として俎上に載りたいと思っています。
私の大切なお友達、
きょうもいいてんきっ♪♪♪
運営者のゆう。さんも私と同テーマについて、
簡潔に力強い言葉で語っています。
↓↓よろしければご参照お願いします。
っ わたしが此処で綴るワケ。
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